阪神淡路大震災

【阪神淡路大震災】阪神大震災22年 弟を守ろうとした母へ「見守っていて」

【阪神淡路大震災】阪神大震災22年 弟を守ろうとした母へ「見守っていて」1995年1月17日 阪神淡路大震災 地震 火災

阪神大震災から22年を迎えた17日の朝は、前夜の雨が上がり、澄んだ冷気が寒かったあの日を思い起こさせた。

各地で営まれた追悼会場で、自宅の仏前で、出勤前にほこらの前で、犠牲になった大切な人に思いを巡らせ、手を合わせる人たちがいた。被災地は鎮魂の祈りに包まれた。

 

(写真提供:神戸市) 

阪神・淡路大震災「1.17の記録」

 

2017年1月17日午前5時46分を少し過ぎたころ、食パンをきれいに切りそろえた三角形のサンドイッチを供えた自宅の仏壇に兵庫県芦屋市の中川由佳理さん(38)は静かに手を合わせた。

父の手作りで、震災で逝った母と小学生だった弟のお気に入りだった。

壊れた家で母は弟をかばうようにして亡くなった。

中川さんは今、父と夫、幼い長男と暮らし、おなかに新たな命を宿す。何をおいても我が子を守ろうとした母。「お母さんのようになりたい。見守っていてね」  

中川さんは震災当時、高校1年で16歳。神戸市東灘区の自宅が全壊し、母和子さん(当時43歳)と小学6年だった弟智仁さん(同12歳)が亡くなった。父と近所の人らが助け出し、通りがかりの車に頼んで病院に運んだが、救えなかった。

22年前のあの日、立っていられない揺れの中で和子さんは智仁さんの部屋に駆けつけたと後に聞かされた。  

「命を救う仕事をしたい」と看護師の道に進み、10年ほど勤務した。2010年6月、夫清教(きよのり)さん(42)と結婚し、翌年、長男晴翔(はると)ちゃん(5)が誕生。おなかに次男がいる。  

最近は、おなかが大きくなって晴翔ちゃんと遊ぶのも一苦労だ。つい遺影を見上げて「お母さん、どうやってたん?」。聞きたいことはたくさんある。  

毎年巡る1・17。父菊雄さん(62)は2人をしのぶうち、十数年前からサンドイッチを仏前に供え始めた。

料理好きで、仕事が休みの日の昼食にサンドイッチを作った。卵焼きやトマト、レタスなどがきれいに挟んである。和子さんも智仁さんも大好きだった。震災で失った、温かで優しかった食卓。

「あの朝、お母さんは自らを顧みず、弟を助けようとした。私なら、お母さんのようにできるだろうか」。手を合わせながら涙が込み上げた。

「何とか助けたかった」  おなかの子が生まれれば和子さんと同じ2児の母。「お母さんのように家族に尽くしたい。見ていてほしい」と願った。

毎日新聞

【阪神淡路大震災】震災慰霊行事、苦渋の中止 遺族、心で祈り続けて

激震は母親の命を奪った。近所の赤ちゃんや結婚前の女性の命をも。それでも、同じ地域で亡くなった人々の命の重みをかみしめながら、復興まちづくりにまい進してきた。

 

17日で阪神・淡路大震災から21年。今年は街の追悼行事が取りやめになる。でも、願う。それぞれが心の中で祈り続けてほしい、と。

 1995年1月17日 阪神淡路大震災 地震 火災

(深江本町阪神高速倒壊現場 写真提供:神戸市)

 

阪神・淡路大震災「1.17の記録」

 

神戸市灘区備後町4の上野貞冶(さだや)さん(86)の自宅は全壊。母すずゑさん=当時(86)、妻明子さん(78)とともに天井や土壁に埋まった。布団をかぶったまま身動きが取れず、胸が苦しかった。

 

やがて、隣の明子さんが助け出されて安堵(あんど)した。「私が駄目でも母をみてくれる」。その後、貞冶さんも助け出されたが、すずゑさんは息を引き取っていた。

 

遺体安置所では、何も食べず、眠らず、そばに座り続けた。だが四十九日が過ぎ、「自分は生まれ変わった。次は人のためになりたい」と心を決めた。  

 

夫妻が住んでいたJR六甲道南地区周辺では135人が死亡。多くの家屋が全半壊し、再開発事業が進められた。貞冶さんは昼は仕事、夜は話し合いに奔走。2002年、自治会連合会長になった。  

 

震災から10年。高層ビルが立ち並ぶ新たな街は完成した。防災公園のそばには慰霊碑を建立し、翌06年1月、初の慰霊祭を開いた。貞冶さんは「悲しみは胸の中にしまい、無我夢中で走り回ってきた」とあいさつした。  

 

震災後に移り住んだ住民にも慰霊祭への参加を呼び掛けた。毎年豚汁を振る舞うため、約20人が未明から準備した。「『ご苦労さんです』としか言えなかったが、本当に感謝でいっぱいでした」  

 

一方、参列者は年々減っていった。震災20年が過ぎ、自治会連合会のメンバーからも「もうそろそろ…」との声が漏れ始めた。貞冶さんは続けるつもりだったが、周辺地域でも追悼行事は開かれなくなった。

 

1月5日、自治会連合会の常任理事会。「この辺でやめた方がええと思いますか」。貞冶さんは切り出した。誰からか「続けよう」と声が上がるのを期待していたが、2人しかいなかった。  

 

「ワンマンで進める団体やない。無理をしてまで『やれ』とは言われへん」。思いをのみ込み、「慰霊祭廃止の件」と書かれた紙を掲示板に張った。  

 

予定のない1月17日は10年ぶり。貞冶さんは「慰霊碑に手を合わせに行くやろな」。

 

目をやった慰霊碑には、こう刻まれていた。  

 

〈復興十年槌音(つちおと)止まず 鎮魂の祈り 未来へ伝う〉

 

神戸新聞

【阪神淡路大震災】娘を忘れることはない

〈次女、大石朝美さん=当時(16)=を亡くす〉

 

何年たっても、娘を思う気持ちは変わりません。

 

今日は娘のカーディガンを持って東遊園地に来ました。去年の12月で36歳。「早くお嫁さんになりたい」って言ってたから、もうお母さんになってたやろね。

 

1995年1月17日 阪神淡路大震災 地震 火災

(写真提供:神戸市)

 

阪神・淡路大震災「1.17の記録」

 

神戸市兵庫区文化住宅で被災しました。たんすが倒れてきました。胸が苦しかった。助けられるのがあと30分遅かったら、私もだめやったかもしれない。

 

あの日、午前3時ごろに起きた主人が、宿題をしていた娘に「はよ寝えや」って言うたら、娘が隣の布団に入ってきたことは覚えてるんです。(家が崩れ、閉じ込められていたときには)無意識に手を握っとったんやけど…。

 

活発な娘でした。いまだに、中学校の先生や友達が家を訪ねてくれるんです。

 

お笑いコンビの追っかけをしていたことや、帰ってくると、間仕切りののれんを勢いよく手で払って入ってくる姿。いろいろな場面が思い出されて。

 

やっぱり、娘のことを忘れることはないわね。

 

産経WEST

【阪神淡路大震災】いなくなって初めて知ったそばにいる命の尊さ「だからこそ、自分の周りの人を大切にして」

「明日、震災が起きると思う人、手を挙げてください」

 

体育館がしんと静まり返った。今月9日、兵庫県三木市内の中学校で開かれた追悼集会。阪神大震災の語り部ボランティアグループ「語り部KOBE1995」のメンバーで神戸市立小学校教員、長谷川元(げん)気(き)さん(28)は、生徒らに語りかけた。

 

「当時小学生だった僕も、20年前のあの日まで、震災が起きるなんて夢にも思っていなかった」。そして、一人一人の目を見ながら、ゆっくりと体験を語り始めた。

 

1995年1月17日 阪神淡路大震災 地震 火災

(写真提供:神戸市)

 

阪神・淡路大震災「1.17の記録」

 

平成7年1月17日、当時小学2年だった長谷川さんは同市東灘区の自宅アパートが全壊し、弟の翔(しょう)人(と)ちゃん=当時(1)=と母の規(のり)子(こ)さん=同(34)=を亡くした。

 

がれきの下敷きになり、「おかーさーん、おかーさーん」と叫んでも返事がなかったこと。避難先の公園で、「これからは家族3人で力を合わせて頑張っていこうな」と言った父(63)の涙。

 

震災後、しばらく見続けた家族5人の楽しかった日々の夢。学校生活の会話で、ふと母を思い出し、休み時間に涙があふれたこと-。

 

「あの日、2人がいなくなると分かっていたなら、もっとお母さんが喜ぶことをしたのに。翔人が笑顔になれるようにいっぱい遊んであげたのに」。

 

初めて知ったそばにいる命の尊さ。「だからこそ、今、自分の周りにいる人たちを大切にしてほしい」

 

グループのメンバーとして3回目の講演となった長谷川さん。生徒の一人は「日常の大切さを知りました」と感想を述べた。

 

 

長谷川さんが語り部になったのは、1年前に届いた手紙がきっかけだった。

 

「私たちと一緒に活動しませんか」。勤務先の小学校の追悼集会で話す長谷川さんを紹介した新聞記事を読み、グループ代表で元小学校教諭の田村勝太郎さん(73)が呼びかけた。

 

長谷川さんは「他校の子供たちにも伝えられる」と思い、仲間に加わった。若い語り部の誕生に、田村さんは「砂場の中から大切な宝物を探し当てたような喜びだった」と振り返る。

 

グループは、震災で小学校の避難所運営などを経験した田村さんや、遺族ら数人で16年12月に結成。県内外の小中学校などで約70回講演を重ね、命の尊さや助け合いの大切さなどを伝えてきた。

 

しかし、結成から10年がたち、長谷川さん以外で活動できる語り部メンバーは60~80代の4人と高齢化が進んでいる。

 

「ずっと若い人材を探し続けていたが、なかなか受けてくれる人がいなかった。小学生で被災した長谷川君の“生の声”や今の姿には、体験を子供たちに身近に感じてもらえる力がある」と田村さんは期待する。

 

長谷川さんが加わってもうすぐ1年。「こんなエピソードを盛り込んでみたら」「時系列のストーリーを作ったら伝わりやすいで」。長谷川さんが語り部をする際には、田村さんが同行し、アドバイスする。

 

「先輩たちから学ぶことはいっぱいある。語り部として伝えたい思いを、いかに『なるほど』と思わせながら伝えるか。それはとても大事だし、難しい」と長谷川さん。

 

中学生の時に震災について書いた作文を読み上げたり、自分の体験を聞いた中高校生らが描いてくれた紙芝居を活用したりして試行錯誤を重ねる。

 

そんな姿に、田村さんも「いずれは語り部のリーダーとして被災地の記憶の継承を引っ張っていく存在になってほしい」と温かいまなざしを向ける。

 

長谷川さんには伝えたいことが2つある。「周りにいる人を大切にすること」と「夢を持つ大切さ」だ。「それを伝えていくのは自分にしかできない。

 

つらい経験があっても、子供たちのために話をしようとしている自分の姿を見て、少しでも希望を持ってもらえたらうれしい」

 

あの悲しみを乗り越えたからこそ伝えられる力がある、と信じている。

 

産経WEST

【阪神淡路大震災】「青い空に絵を描こう」長女の死つづる女性教諭の手紙をもとに朗読劇

阪神大震災で娘を亡くした女性教諭の手紙をもとに、神戸を中心に活動する女優、前田伊都子さん(54)=兵庫県芦屋市=が執筆した朗読劇が18日、芦屋市業平町のルナホールで上演される。

 

前田さんは「震災から20年を迎え、震災を体験していない人も増えた。

 

1995年1月17日 阪神淡路大震災 地震 火災

(写真提供:神戸市)

阪神・淡路大震災「1.17の記録」

 

朗読劇を通して震災の記憶を共有することで、あのとき何があって人々がどんな思いでいたのかということを思い起こしてほしい」と話している。

 

朗読劇を書いたきっかけは、震災から約2カ月後、芦屋市立岩園小1年だった娘の担任の女性教諭が、中学3年の長女を失った思いをつづった手紙を前田さんが読んだことだった。

 

がれきに埋もれていた長女を引っ張り出して人工呼吸や心臓マッサージをしたことなど、教諭の娘に対する切なる思いがつづられ、前田さんは涙を流しながら何度も読み返した。

 

「この手紙を演劇にして、震災の記憶として語り継ぎたい」と朗読劇執筆を教諭に持ちかけたところ、快諾を得た。震災1年後から朗読劇の執筆を始め、約1年がかりで書き上げた。平成9年1月の初上演以降、阪神間のホールや学校などで披露し続けている。

 

朗読劇のタイトルは「青い空に絵を描こう~震災の街で生まれた愛の手紙」。

 

▽震災で娘を亡くした教師とその保護者

▽小学校の体育館で避難所生活を送る老人と小学生

▽ボランティアの青年と東京にいる恋人-

 

の3組の文通で構成。いすに座り、身ぶりや表情も押さえてセリフを朗読する。

 

今回は、ボランティアの青年役として尼崎市で震災を経験した俳優、賀集利樹さん(36)も出演。当時中学3年だった賀集さんは自宅で被災した。

 

「なぜか震災の5分ほど前に目が覚め、つけっ放しだった部屋の明かりを消そうと立ち上がった瞬間、大きな揺れで立てなくなり恐怖を覚えた」とあの日を振り返る。

 

震災が遠い記憶となってきていることに不安を感じ、朗読劇への出演を決意した賀集さん。「地震の多い日本では、災害を忘れず、常に防災に備えて被害を最小限にすることが大切。この朗読劇で震災の風化を防ぎたい」と話している。

 

産経WEST

【阪神淡路大震災】亡き母へ「この子抱っこしてほしかったな」

また、この日がめぐってきた。

 

1月17日。祈りをささげる人に応えるかのように、前夜からの雨がやんだ被災地。人々は、つらい思い出を改めてかみしめ、犠牲者を悼んだ。

 

阪神大震災から20年。

 

いまだ肉親の死を受け止められない人がいる。一方で新しい命が生まれ、母として強く生きていこうとする人もいる。震災の記憶を伝える責務を負って、だれもが未来に向けて歩いていく。

 

・1995年1月17日 阪神淡路大震災 地震 火災

(写真提供:神戸市)

阪神・淡路大震災「1.17の記録」

 

「赤ちゃんが生まれたよ。抱っこしてあげてほしいな」-。

 

17日、神戸市中央区の東遊園地で行われた追悼行事。多くの遺族が、明日への誓いを新たにした。

 

阪神大震災で母親を失った同区の主婦、早川美幸さん(27)は7カ月の長男を抱いて参加した。母の記憶は断片的にしか残っていない。だが、母親になったからこそ、母の気持ちがよく分かる。「お母さんに少しでも近づけるようにがんばるからね」

 

平成7年1月17日。母、裕美子さん=当時(43)=が検査入院していた同市長田区の市立西市民病院は、激しい揺れに襲われた。病棟の5階部分が崩れ、裕美子さんを含む44人が生き埋めになった。次々と救出されたが、裕美子さんだけが犠牲となった。

 

「明日、家に帰ったら会えるから、それまで我慢してね」。前日の16日、当時7歳の美幸さんは裕美子さんと電話で話した。しかし、その約束が果たされることはなかった。

 

震災後、美幸さんは友人らに裕美子さんの話をすることを避けた。口に出すとつらくなるからだ。中学時代は、毎年1月17日は学校を休んだ。授業で震災体験を発表しなければならず、クラスメートから裕美子さんのことを尋ねられたくなかった。

 

福祉の道を目指して、兵庫県立舞子高校環境防災科(同市垂水区)に入学。当初は、裕美子さんのことが頭をよぎり、防災の勉強がつらかった。

 

西市民病院で、救助活動をしていた消防士が講師に招かれたときは、裕美子さんを亡くした悲しさと悔しさを思い出し、ずっとうつむいていた。

 

それでも、授業の一環として、自らの被災体験を人前で繰り返し話すたび、「『母親がいない』という現実を受け止めることができるようになった」という。

 

25年4月、友人の紹介で出会った夫、文章さん(33)と結婚。26年5月に長男の結(つなぐ)くんを出産した。

 

結くんが生まれてから美幸さんは、裕美子さんを思うことが増えたという。結くんが風邪をひいたときなど、「お母さんがいれば相談できるのに…」と思ったという。それでも、「震災で多くのものを失ったからこそ、今の平凡な日常がより幸せに感じられる」と家族がいる日常に感謝している。

 

裕美子さんの記憶はあまりない。毎日のように保育園の送り迎えをしてくれたことや、入院中に売店でお菓子を買ってもらったことなどだけ。

 

ただ、子供が生まれて裕美子さんの無念が改めて分かる。「子供を残して死ぬことが、どんなにつらいことか。この子を絶対に守る」

 

母親になって初めて「あの日」を迎えた。愛する家族とともに訪れた美幸さんは、竹灯籠の前で静かに目を閉じて裕美子さんに呼びかけた。

 

「育ててくれてありがとう。これからも見守っていてください」

 

産経WEST

【阪神淡路大震災】「亡き兄の分も生きる」消防士の萩原裕介さん

「兄ちゃん、20歳になったで。今まで以上に責任感持って頑張るから」。

 

神戸市須磨区の消防士、萩原裕介さん(20)は17日朝、自宅の仏壇の前で、震災の犠牲になった兄=当時(3)=に、いつものように語りかけた。「原点」という兄の死を通して命の重みを学び、2年前から消防士として人命救助の道を歩み始めている。

 

1995年1月17日 阪神淡路大震災 地震 火災

(写真提供:神戸市)

 

阪神・淡路大震災「1.17の記録」

 

「兄の分も、後悔しないように今を生きる」。萩原さんは物心がついたときから、いつも自分に言い聞かせてきた。

 

平成7年1月17日、生後3週間だった萩原さんは、母の実家にいて無事だった。しかし、同市長田区の父の実家にいた幼い兄と祖母は、つぶれた家の下敷きになり、命を落とした。

 

月命日の17日がくると、家族で墓参りをし、兄の誕生日には、年齢の数のろうそくをともしたケーキを囲んできた。写真立ての中で笑う幼い兄。「注射で泣かない子やった」「裕介をよくかわいがった」と両親は教えてくれた。

 

自身の記憶にはないが、「いつも自分の中に兄はいた」。自分のそばで見守ってくれる心強い存在だった。

 

両親は自ら震災当時のことをほとんど話したことはなかったが、小学生のころに2歳下の妹と聞いた母の言葉が忘れられない。

 

「これ以上、自分の子供が命を落とすのは嫌や。あんたらにはあんなつらい思いを絶対にしてほしくない」。母は体に触れながら泣いていた。

 

当時も今も消防士として活動する父。父を通じて、消防隊員の活動に心をひかれるようになった。23年3月に起こった東日本大震災でも派遣され、活動していた。父の姿にあこがれた。

 

「両親も多くは語らないけれど、兄の死を通して、命の重みや強く生きることを教えてくれていたと思う」

 

サッカーを始めたときも、高校進学のときも、消防士を志したときも、両親は自分の意志を尊重してくれた。そしていつからか、月命日には、自分の決意を兄に報告することが習慣になった。「(サッカーの)大会で優勝する」「消防士になる」

 

「宣言した限りは、絶対に実現せなって思えるから」

 

高校卒業後の25年4月に消防士になり、同10月に垂水消防署(同市垂水区)に配属された。「消防士になる」と報告したら、母は「なったらええやん」と話した。その顔は、笑っていた。今はポンプ車に乗り込み、消火活動などにあたる。まだまだ半人前だが、人を救える仕事にやりがいを感じる。

 

21回目の命日となったこの日、出勤前、仏壇で手を合わせた。

 

消防署に出勤し、ポンプ車などの車両点検を行った。火災や災害が起こっても、万全の備えで臨みたい。次の目標は救助隊員になることだ。

 

あの時、生まれたばかりで非力だったが今は違う。「どんな災害が起きても、次は自分が最前線で命を守っていく」。返事はないけれど、いつも兄はそばにいて見守ってくれている。そう、感じている。

 

産経WEST

【阪神淡路大震災】「俺の震災は終わらない」

次女を失った。

 

「相変わらず、お前は18のままなんやなあ。俺はこうしてちゃんと生きてるから、心配するな」

 

東遊園地を訪れた神戸市東灘区の会社員、田中武雄さん(66)は高校3年で亡くなった次女の樹里さん=当時(18)=に語りかけた。

 

あれから20年。「もっと生きたかったやろ」とつぶやき、涙をぬぐった。

 

1995年1月17日 阪神淡路大震災 地震 火災

(写真提供:神戸市) 

 

阪神・淡路大震災「1.17の記録」

 

田中さんの一日は、樹里さんが好きだったコーヒーをいれることから始まる。仏壇に供え、こちらを見つめる遺影に「樹里、あのな…」。20年間続けてきた。

 

自宅は全壊し、隣の部屋で寝ていた樹里さんの胸を柱が直撃した。ひつぎの中で薄化粧を施された娘は、眠っているかのようにきれいだった。

 

「何で近くにおったのに守ってやれんかったんや」。遺骨のひとかけらをのみ込み、一人になると大声で泣いた。

 

ひまわりみたいな明るい子。手がかからず、家族の中で一番のしっかりもの。最初で最後のわがままが震災の前年に言った「四年制大学に行かせてほしい」だった。「何でや、短大に行けよ」と取り合わなくても「社会の先生になりたいから、お願い」と譲らなかった。

 

震災後すぐ、樹里さんの志望校だった関西学院大学兵庫県西宮市)に遺影を持って訪れた。「ほら、お前が行きたかった学校やで」

 

樹里さんが大好きだった歌手の福山雅治さんの新曲が出るたび、CDを買って仏壇の前でかけた。祭り好きだった樹里さんのえと「辰」の絵と名前を染め上げただんじりのじゅばんを作り、それを着て担いだ。車のナンバーは、樹里さんの誕生日の「1025」。

 

「とにかく何かしてやりたくて。結局は自分の慰めでしかないんやけど。心の中では生きてるって思いたくて」と寂しげに笑う。

 

あの日から20年。娘が生きた時間より、いなくなってからの方が長くなった。口では「娘が死んだ」と言えるが、まだ受け入れられない。娘と同じ制服を着た女子生徒を見るたび「もしかして」と探してしまう。心の穴は年を経るにつれ大きくなる。

 

「天国で樹里に会って『助けてやれんでごめんな』って言う。それで樹里が『ええよ』って笑ってくれるまで、俺の震災は終わらないから」

 

産経WEST

【阪神淡路大震災】「娘の声が録音されたレコードは宝物」

〈長女、寺田弘美さん=当時(30)=を亡くす〉

 

寝付けずうとうとしてると、いきなりグラッときました。倒れたたんすが右耳を直撃したけれど、命は助かった。

 

近所の兄や姉の家に安否の確認に走り、神戸市長田区の娘のアパートに行くのが最後になってしまって…。着いたときには焼けてあれへんかった。

 

4日後、跡地を自衛隊の人に掘ってもらったら、遺骨が出てきて絶句しました。地べたに頭をこすりつけて、何回娘に謝ったか。

 

1995年1月17日 阪神淡路大震災 地震 火災

(写真提供:神戸市)

 

阪神・淡路大震災「1.17の記録」

 

明るい子でした。小学生の頃、三宮であったのど自慢大会でアグネス・チャンの曲を歌って優勝。その歌声が録音されたレコードが宝物です。仕事が決まり、友達と就職祝いをしようという矢先やったそうです。

 

娘は火事の熱い中で亡くなったから、真夏を選んで、震災の翌年に四国霊場八十八カ所を巡りました。静かな山の中を歩いて札所を回ると、人生を振り返る機会にもなり、

 

これまで、3回結(けち)願(がん)しました。地震で命を落とさないよう、震災の語り部もしています。

 

足を悪くして四国には行けないので、20年を機に、娘と静かに向き合おうかなとも思っています。(娘の死で)重たい足かせをはめられた。ずっと引きずっていく覚悟はできています。

 

産経WEST

【阪神淡路大震災】炎の前の男性、マイクに告げた息子との最後の会話「おやじ、もうええから逃げてくれ」

阪神大震災の揺れが襲った直後、ラジオから中年男性の悲痛な声が生中継で流れた。

 

「息子ががれきの下敷きになって動けない。何度もどけようとしたが、火が上がった。最後に『おやじ、もうええから逃げてくれ』と…」

 

1995年1月17日 阪神淡路大震災 地震 火災

ポートアイランドから望む長田方面の火災 写真提供:神戸市) 

 

阪神・淡路大震災「1.17の記録」

 

兵庫県を拠点にするラジオ関西神戸市中央区)。記者が中継機材を車に積んでスタジオから飛び出し、たどり着いた神戸市長田区若松町は、辺り一面、家屋が倒壊、すでに炎が燃え広がっていた。

 

マイクを向けると、炎の前で呆(ぼう)然(ぜん)と立ちすくむ中年男性は燃える民家を指さし、息子との最後のやりとりを淡々と話し出した。あまりの衝撃に、記者はそれ以上何も問いかけることができなかった。

 

産経WEST