東日本大震災

【東日本大震災】贈る言葉 東日本大震災6年 娘の晃子へ 一年でも長く生きる

【東日本大震災】贈る言葉 東日本大震災6年 娘の晃子へ 一年でも長く生きる 2011年3月11日 東日本大震災 地震 津波 火災 福島原発事故

岩手県陸前高田市 金沢善郎さん(86)

晃子(当時53歳)、私が仏間にめったに入らないから怒っているかい。遺影と目を合わせられないんだ。安置所を捜し回って見つけたのは津波から9日後。通夜では家族皆で布団を並べて眠ったね。それでもまだ、逝ったとは思えなかった。とうとう顔をのぞき込んだのは、葬儀で「最後のお別れです」と言われた時。あの時のつらさがよみがえるのが怖いんだ。

 

仙台市の大学に進んで、向こうで勤めたがった一人娘の君を無理に連れ戻し、陸前高田市職員の採用試験を受けさせたね。勤続三十数年、お疲れ様。この6年間、私は問い続けてきました。なぜ111人もの市職員が死なねばならなかったか。答えは出ていませんが、何か文章にしようと考えています。書けば、少しは納得できるかと思うのです。

晃子がナッツ(雌犬)を残してくれたから、毎日3キロ散歩するようになりました。お陰で健康です。再会した時に君にほめてもらえるよう、一年でも長く生きると決めて涙を拭いながら歩いています。母さん(82)は転んで足腰を痛めてね。七回忌には1人でお墓参りに行くから、待っていてな。

毎日新聞

【東日本大震災】大震災6年 命救った消防団員の息子を「褒めてあげたい」

【東日本大震災】大震災6年 命救った消防団員の息子を「褒めてあげたい」 2011年3月11日 東日本大震災 地震 津波 火災 福島原発事故

近所の人から感謝の言葉 福島・浪江の渡辺昭子さん

海がよく見える福島県浪江町の高台で、渡辺昭子さん(67)は真新しい御影(みかげ)石に刻まれた碑文を見つめた。東日本大震災の発生から6年を迎えた11日午前、津波の犠牲者182人の名前をとどめる町による初の慰霊碑が除幕された。一人息子の潤也さん(当時36歳)は消防団員として活動中に命を落とした。県内の行方不明者196人の一人。県警による捜索はこの日も、近くの海岸で続けられた。

 

「津波が来るかもしれない。役場に逃げた方がいいよ」。強い揺れに襲われた直後、すぐ隣で理容店を営む潤也さんが駆け付けてきた。「オーライ、オーライ」。昭子さんの車を誘導すると、消防団員として見回りに出かけた。優しい目をした息子と会う日はもう訪れなかった。自宅は津波に流された。

中学3年まで昭子さんと一緒の布団で寝る、甘えん坊だった。運動神経が良く、野球に打ち込んだ。理容店を継いでからも地元でシニアチームの監督を務めた。身長180センチでがっしりした体格の一方、大きな声を出さない優しい性格だった。「頑丈な子だったから、どこかで生きているんじゃないか」。そう願わずにはいられなかった。

震災から約1カ月後。息子の夢を見た。「寒い、寒い」と言って幼い頃のように布団に入ってきた。「ごめんな」。大きい体を震わせて繰り返す息子。必死に温めるうち、目が覚めた。「亡くなる間際の様子を知らせてくれたのかな」

息子と救助活動していた消防団員に偶然会い、潤也さんの様子を聞いた。川で助けを求める知人を救い出した後、別の知人の車に乗って逃げる姿が最後だったという。「消防団に入れなければ良かった」と自分を責め続けた。

その後、近所の人たちから「家にいたら潤也に『逃げて』と言われた。あのまま家にいたら助からなかった」と感謝の言葉をかけられ、少し気持ちが落ち着いた。息子の死は受け入れられないが「褒めてやりたい」と思えるようになった。

2012年3月10日、意を決して葬式をした。いつも着ていた体操着や好物だったコッペパンを海にささげた。「私の子どもでいてくれてありがとう。ずっと一緒だよ」

東京電力福島第1原発事故で、自宅があった請戸地区は警戒区域となり、立ち入りが禁じられた。「原発事故さえなかったら助けられたかもしれない。助けられなくても遺体を家に連れて帰って抱きしめることができたはず」。6年たった今も恨みは消えない。

慰霊碑の除幕式に潤也さんの長女で仙台の大学に通う紗彩(さあや)さん(19)も参列した。震災を経験し、毎年2月の「請戸田植え踊り」に踊り子で参加するようになった。潤也さんも楽しんだ300年続く伝統芸能。今年も「お父さんが見てくれている」と懸命に舞った。

浪江を離れ、福島市に家を買った。「潤也の家」と思い、潤也さんの妻や子と暮らしている。「区切りはつけたくない。でも慰霊碑が建てられたことがうれしい。潤也を思う気持ちが届いたかな」

毎日新聞

【東日本大震災】大震災6年 新たな我が子2人に

【東日本大震災】大震災6年 新たな我が子2人に「天国の5人と一緒」 2011年3月11日 東日本大震災 地震 津波 火災 福島原発事故

宮城・石巻の小高正美さん、親子4人で歩み始める

新しい命に、失った我が子らの思い出や成長を託せるようになりました--。

宮城県石巻市の家業手伝い、小高(おだか)正美さん(38)は、東日本大震災の津波で両親と子供3人の家族5人を失った。家にこもりがちな時期もあったが、葛藤の末に新たに授かった2人の子は、一緒に供養してくれるようになった。今は「天国の5人と一緒」と確信している。親子4人は歩み始めた。

11日、石巻市沿岸部の上釜地区に新たに建てられた慰霊碑の前に、小高さん夫婦らの姿があった。犠牲になった小高家5人の名も碑に刻まれている。市立釜小2年の長女萌霞(もえか)さん(当時8歳)、幼稚園児の長男唯一翔(ゆいと)ちゃん(同5)、保育園児の次男翔太ちゃん(同3)、父惇二さん(同72)、母みさ子さん(同59)。

2011年3月11日、正美さんは団体職員だった当時の勤務先から比較的近い日和山(ひよりやま)へ避難した。自宅がある中屋敷地区は3キロ以上離れ、低地にある。

「両親は家にいただろう。翔太も保育園を休んでた。幼稚園も午後1時半には帰宅させるから唯一翔も……」。自宅の周囲は濁流にのまれていた。翌日も腰の高さまで浸水し、たどり着けなかった。不安は募った。

建設会社経営の夫政之さん(37)が、仕事のあった仙台から戻ってきた。14日、水の引いた自宅に戻ると、台所に母の遺体があった。そして、萌霞さんのランドセルを見つけた。「帰ってたんだ……」。希望は打ち砕かれた。

覚悟を決めた。生存者がいる避難所でなく、遺体安置所を回り始めた。最初に見つけた唯一翔ちゃんは、安らかな顔だった。萌霞さんは名札を付け、父は腹巻きの中に免許証があり身元が判明した。1カ月後、小さな遺体を翔太ちゃんと確認した。

ぼうぜんとなり、生きる気力を失いかけた。人目を避けるように隣の東松島市のアパートに転居した。仕事も半年ほど休んだ。

失意の中で慰めてくれたのは、被災宅2階から持ち出したアルバム。我が子の写真を壁に張り出した。夏は浴衣を買ってきた。少しだけ、子供と一緒にいる気持ちになれた気がした。

小高さんは12年に次女瑚乃美(このみ)ちゃん(4)、14年に三男斗輝矢(ときや)ちゃん(3)を出産した。「子を守れなかった親が新しい命を宿していいのか」と「罪悪感」にもさいなまれた。だが、周囲に励まされながら、新たな命をはぐくむ中で、ようやく「産んで良かった」と思えるようになった。

2人に震災のことはあまり話してない。だけど、お兄ちゃん、お姉ちゃんは「水の中で苦しくなり死んじゃった」と分かっている。仏壇に菓子を手向けたり、月命日の墓参には家族そろって行く時もある。

正美さんが、かみしめるように言った。「朝ご飯をみんなで食べて、夫を送り出す。この日常が、私たちの復興かなと感じています」

毎日新聞

【東日本大震災】お婿さんの近況、聞いてみようか

【東日本大震災】お婿さんの近況、聞いてみようか 2011年3月11日 東日本大震災 地震 津波 火災 福島原発事故

「僕は成田家の人間ですから」

彼は即答した。

東日本大震災で亡くなった宮城県石巻市の成田絵美さん=当時(26)=にはお婿さんがいた。4つ上。運送業を営む。震災4カ月前に結婚し、成田家の籍に入った。

「実家に戻る?」

絵美さんの母で看護職の博美さん(56)は同居を一時解消する考えがあるかどうかを聞いた。震災1カ月後だったと思う。娘の遺体は見つかっていない。

「いえ、残ります」

答えにためらいはなかった。

博美さんは自宅を津波で流され、生活の場をアパートに移していた。夫の正明さん(60)、母(84)、お婿さんと4人で暮らす。そこを拠点に捜索を続けた。

温厚で礼儀正しい。ご飯も「おいしいおいしい」と残さず食べてくれる。娘はいい人を見つけた。

彼と2人で食べ物の買い出しに出た。被災地の食料不足はその時まだ解消されていない。

途中、デニムスカートの若い女性を見掛けた。娘のものと同じ柄だ。彼は分かっただろうか。

アパートに戻り、その話になった。

彼も気づいていた。胸が苦しく、その場ではお互い口に出せないでいた。

主役である娘のいない同居生活は1年を超えた。

「彼も若い。これ以上縛りつけておけない」

正明さんと話し、一つの決断をした。娘の死亡届を出し、踏ん切りもついていた。

「もう籍を抜いていいのよ。娘のためにここまでよくやってくれました」

彼は黙って聞いていた。

時間をかけて一人で考えたのだろう。数週間後、離籍の報告を受けた。

彼には感謝している。期間は短かったが、娘も結婚を経験できた。赤ちゃんを授かる前に命を落とし、お母さんにはなれなかったけれど。

彼は旧姓に戻ってからも娘の誕生日には実家から駆け付けてくれた。次の年も。次の次の年も。

その次の年はケーキだけ届いた。

昨年はそれも途絶えた。

震災から6年。人の心は移ろう。新しく好きな人ができても不思議はない。

博美さんはその日に備え気持ちを整え始めている。

勤め先の病院に年1回、彼の義理のお兄さんが健康診断を受けに来る。

今度、勇気を出して彼の近況を聞いてみようか。

聞けるかもしれないし、聞けないかもしれない。

産経新聞

【東日本大震災】人々のつながる場所作り テイラー基金手伝い、生きる励みに

「恨んでいる相手と一緒にいるのはつらいだろうから、離婚して東京の実家に帰るか?」

夫のその言葉を聞いた後、遠藤綾子(りょうこ)さん(48)は気付いた。

「子煩悩な父親」

「つらいのは夫も同じ」

夫の伸一さん(48)は「『子はかすがい』。たとえ命が亡くなっても夫婦をつないでくれたのは子供たちだ」と話す。

「花、侃太(かんた)、奏(かな)にとって父と母は俺と綾子に変わりない」

 

「外人って見たことある?」

奏ちゃんが小学1年のころ、伸一さんに得意げに問いかけた。明るい髪色の外国人女性が授業で英語を教えてくれた。「『お笑い好きの楽しくてかわいい先生』だと話してくれた」(伸一さん)

綾子さんは「その先生こそ、テイラー・アンダーソンさんだったのだと思います」とほほ笑む。

アンダーソンさんは平成20年、宮城県石巻市に英語の補助教師として赴任、7つの学校で教えていた。任期満了まで半年を切った23年、津波の犠牲となった。

伸一さんが生きる意味を見いだすきっかけを得たのは、アンダーソンさんの両親からだった。

父のアンディーさんと母のジーンさんは震災直後、娘の名を冠した「テイラー・アンダーソン記念基金」を立ち上げた。夫妻は基金をもとにテイラーさんが勤めた学校に英語の本「テイラー文庫」を贈り始めた。

木工職人の伸一さんは本棚作りを任され、計11校に納めた。学校ごとの広さやニーズに合わせ、工夫を凝らした。

 

ボランティアで渡波地区に何度も足を運んできた人たちとの関係も、遠藤夫妻の生きる励みとなった。

夫妻は震災翌年、自宅跡地にコンテナハウスを建て、26年3月には伸一さんがその隣に木製遊具を作った。夫妻の悲しむ様子を見守ってきた仲間たちが、2人を勇気づけようと勧めたのだ。

遠藤家の自宅と別宅は津波で全壊し、土台しか残らなかった。伸一さんは「子供たちと幸せに過ごした場所にはもう戻れない」と設置前の気持ちを振り返る。

だが、コンテナハウスや遊具は人の集まる“基地”へと変わっていった。昨夏、震災当初から地区で支援活動に参加したボランティアの男女が基地で結婚式を挙げた。250人を超える人たちが集まった。

「木工で人の集まる場所を作って残せた。子供たちはきっと喜んでくれる」

伸一さんは当時の心境の変化をこう語る。基地は保育所を拠点に助け合った人々のつながりを表し、渡波保育所を略して「チームわたほい」と名付けられた。

 

基地では、綾子さんや近隣女性たちの集まりが定期的に開かれている。

27年秋、綾子さんを訪ねたジーンさんがある提案をした。着物地のスカーフを手に「日本の伝統的な柄で何か作れたら…」。綾子さんはその言葉からあいさつ状のカードを作ることを決め、地元の女性たちと製作に取りかかった。

テイラー基金や関係者の支えもあり、カード作りは昨秋、ワシントンにあるナショナルギャラリーの担当者の目に留まった。今年2月から同館のギフトショップで販売されている。

あるとき、綾子さんはジーンさんに尋ねた。「お嬢さんを日本に行かせたことを後悔していないか」。「娘の好きだった国に行かせてあげられたことはうれしかった」とジーンさん。

綾子さんは「子供たちがお世話になったテイラーさんとの関係は切っても切り離せない」と話す。

夫妻は27年9月、東松島市のみなし仮設住宅から石巻市の復興公営住宅に移り住んだ。室内には津波で泥を被った子供たちの写真がある。綾子さんは「写真を見るには気持ちの整理がまだつかない。でも現実を克服しなくちゃ」と語る。

自宅跡地の木製遊具の傍らに3体の地蔵がある。花さん。侃太君。奏ちゃん。遠藤夫妻はこれからも3人の父母として生きていくことを誓う。

産経新聞

【東日本大震災】思い出写真 甲子園で孫の雄姿見届け

【東日本大震災】思い出写真 甲子園で孫の雄姿見届け 2011年3月11日 東日本大震災 地震 津波 火災 福島原発事故

いつもこの服装で、こうしてカウンターでお客さんと話していました。孫2人の甲子園の応援にも、この写真を持っていきました〉

そこに写るのは石巻市内で居酒屋「鐵平」を営んでいた夫の伊勢鉄夫さん=震災当時(71)。震災から数日後、がれき交じりの海水に浮いているのを見つけた。約2カ月前に常連客が撮ってくれたものだ。

あの日、伊勢さん夫妻は足の悪い常連客の夫婦を車に乗せ、山を目指した。車が進めないところまで来ると、「安全な場所まで2人を送ってくる」。それが最後に聞いた鉄夫さんの言葉だった。それから2週間余り。津波にのまれた鉄夫さんは遺体で見つかった。

「困っている人を放っておけなくて、口数は少ないけど、周りに慕われる人でした」

鉄夫さんが何より楽しみにしていたのが、野球少年だった2人の孫の成長。兄の千寛さん(21)は石巻工業高の中堅手として、震災翌年の選抜大会に21世紀枠で出場。昨夏には弟の隼さん(18)が東北高の中軸打者として夏の選手権大会に臨み、ともに甲子園球児となった。

「小さい頃から練習の送り迎えをして、試合も欠かさず見に行っていた。うまくなっていく様子をうれしそうに話していました」

昨夏、隼さんは鉄夫さんの遺影に「じっじ、絶対甲子園に連れていくよ」と誓い、約束を果たした。その甲子園が大歓声に包まれる中、玲子さんは静かに遺影に語りかけた。

「おじいさん、孫たちがここまで連れてきてくれたよ。それとも、おじいさんが力を貸してくれたのかな」

産経新聞

思い出写真 「人の役に」聞こえた母の声

思い出写真 「人の役に」聞こえた母の声 2011年3月11日 東日本大震災 地震 津波 火災 福島原発事故

〈母は40代前半で、父が病気で亡くなる前後の写真かな。当時は祖母、両親、僕と弟の5人家族。家計を支えるため、働きに出ていた水産加工場の慰安旅行だと思います。母にとって一番苦しい時期ですが、私の目にはほほ笑んでいるようにしか見えません〉

本州最東端に位置する岩手県宮古市の重茂(おもえ)半島で漁師をしていた千村さん。父や祖母も他界し、母の君代さん=当時(61)=と2人で暮らしていた。

あの日、千村さんは母からお願いをされた。

「ジャガイモの種を買ってきて」

母は自宅で食べる野菜を自ら栽培していた。「ジャガイモなら4月でも間に合うのに…」。首をひねりながら自宅から約25キロの市中心部にあるホームセンターへ。そこで、激しい揺れに襲われ、「黒い壁」のような津波を目撃する。

家路を急いだが、がれきに行く手を阻まれ、たどり着いたのは5日後。海から約500メートル離れた場所にあった家は跡形もなかった。

母の遺体は震災翌日に見つかったが、傷みが激しかった。身元が判明し、遺骨を手にすることができたのは3カ月余り後だった。

「あの頼み事がなかったら…。母親に助けられた」と千村さんは言う。

「人の役に立ちなさい」。あるとき、そんな母の声が聞こえた。千村さんは今、盛岡市に移り住み、市内の復興支援施設「もりおか復興支援センター」で自らと同じ被災者の相談員として働く。

母の写真は、近所の人から手渡された泥まみれの2冊のアルバムの中にあった。泥はあえて落としていない。

「震災を忘れないために」

産経新聞

【東日本大震災】思い出写真 今も捜し続ける娘の姿 福島県大熊町・木村紀夫さん

【東日本大震災】思い出写真 今も捜し続ける娘の姿 福島県大熊町・木村紀夫さん 2011年3月11日 東日本大震災 地震 津波 火災 福島原発事故

あの日から6年。東北を襲った巨大津波は多くの尊い命だけでなく、被災地に住む人々の数々の思い出の品を奪っていった。

一方で、がれきの中からはたくさんの写真も見つかった。波に洗われて色あせたり、ぼろぼろになったりしながら、持ち主の元へ戻ってきたものも少なくない。今は亡き大好きな人。思い出が詰まった写真を手に、残された人たちは何を思うのか。

                  

〈入園式の写真なんですけど、教室で遊び始めたら汐凪(ゆうな)の周りに子供が集まってきて。汐凪が「仕切って」いるように見えたんですよね。活発で人から頼られる子だった汐凪らしい写真ですね〉

津波と除染の水洗いでぼろぼろになった写真。次女、汐凪ちゃん=震災当時(7)=の幼稚園の入園式の風景を木村さんが撮影した。

福島県大熊町で妻、両親、娘2人との6人で暮らしていた。あの日の津波で父親、妻、そして汐凪ちゃんが流されたが、東京電力福島第1原発事故による避難で、震災直後は3人を捜すこともできなかった。

その後も汐凪ちゃんだけが見つからず、木村さんは避難先の長野県白馬村から毎月のように大熊町に通い続け、1人で捜し続けた。

「一生かかっても片付けられないくらいのがれきの量。『絶対見つけてやる』という気持ちにはなれなかった。でも、あそこに汐凪が1人でいるのはかわいそうで」

昨年12月、汐凪ちゃんの遺骨の一部とぬいぐるみ付きのマフラーが見つかった。震災翌年に木村さんが汐凪ちゃんの靴を見つけた場所と同じだった。

「原発事故が起きず、しっかり捜すことができれば、きれいな状態で汐凪を見つけてやることができた。あまりにもむごい。汐凪には本当に申し訳ないことをした」

がれきの中から見つかった写真は放射線量が高く、持ち帰れたのはわずかだったが、その中で入園式の写真はベストショットだ。

「汐凪は私のことを『お父さん』って呼んでいたと思うんです。でも、忘れちゃいますよ。なかなか思い出せない。表情は写真で思い出せるけど、どんなことをどんな声で言っていたか、忘れてしまいますね」

木村さんは現在も汐凪ちゃんの姿を捜し続ける。

産経新聞

【東日本大震災】大震災6年 遺族会発足「二度と津波で亡くさない」 大槌

【東日本大震災】大震災6年 遺族会発足「二度と津波で亡くさない」 大槌 2011年3月11日 東日本大震災 地震 津波 火災 福島原発事故

吉里吉里地区の吉祥寺の檀家が七回忌に合わせて

東日本震災による死者・行方不明者が1285人に上った岩手県大槌町。悲劇を風化させない--。同町吉里吉里(きりきり)地区にある吉祥寺の檀家(だんか)が七回忌に合わせて遺族会を発足させ、11日、同寺で、慰霊碑の除幕式が営まれた。「大切な人を二度と津波で亡くさないように」。会の顧問を務める保育園理事長の東谷(あずまや)藤右エ門さん(83)は誓う。

除幕式には約300人が出席。碑は、苦しみを取り除くという意味を込め「抜苦(ばっく)地蔵」と名付けられ、東谷さんは「大震災の教訓を次の世代に伝承していきましょう」と呼びかけた。

寺は高台にあり無事だったが、檀家179人が犠牲になった。その一人が妻ケイさん(当時74歳)だった。地域の青年会の活動で親しくなった。正月やお盆の集まりで、いつも三船和子さんの演歌「だんな様」を歌ってくれた。隠し事なく何でも相談できた。

6年前のあの日。東谷さんは、悔やんでも悔やみきれなかった。

海岸から約600メートルの自宅で突然、大きな揺れを感じた。「ここさいろ、俺は園児を避難させてくる」。妻に言い残して家を出た。高台の小学校に避難していた園児の無事を確認し校門を出ようとした時、津波が街を襲っているのを見た。

妻は約80メートル流された自宅の中で見つかった。近所の人から「ケイちゃん、津波来る前に家を出たり入ったりしていたよ」と聞いた。「俺のことを待っていたんだと思う。逃げろと言っておけば……」

東谷さんには、三回忌を前に遺族同士で話ができる場を設けたいとの思いはあった。だが、地区の住宅再建も進んでおらず具体化しなかった。

東谷さんの自宅があった場所ではかさ上げ工事が続く。今もおいの家で暮らすが、近く宅地整備が完了する見通しになり家を建て直す道筋も見えてきた。

「震災を語り継ぐためにも遺族会を作りませんか」。七回忌を控え、高橋英悟住職(44)が、地域の顔役でもある東谷さんに持ちかけたのを機に会は先月発足した。

大槌町は、東谷さんが生まれる3カ月前の1933年3月にも、昭和三陸津波で62人の命が奪われるなど、たびたび津波に襲われた。「地震があったら津浪(つなみ)の用心せよ」。地元に建立された石碑に刻まれていた。

「先人たちが警告したように、津波はまたいずれ来る。世代が代わっても震災のことをずっと伝承してほしい」。11日夕に遺族会のメンバーらが海に流す灯籠(とうろう)には、街の平穏を願って妻に宛てて書いた。「天国から見守って、ネ」

毎日新聞

【東日本大震災】<震災6年>戻って 7人思い生きる

【東日本大震災】<震災6年>戻って 7人思い生きる 2011年3月11日 東日本大震災 地震 津波 火災 福島原発事故

昨春に大学を卒業し、古里、宮城県気仙沼市内の保育所の管理栄養士になった。食材の発注や調理を担う。給食を頬張る乳幼児に気を配り、アレルギーがある子に特別食を考える。

◎三浦美咲さん=宮城県気仙沼市=

「毎日いっぱいいっぱい。でも、子どもたちが食べてくれるのはうれしい」。三浦美咲さん(23)の言葉に充実感がこもる。

 東日本大震災の発生当時、市内の高校2年生だった。津波で曽祖母みわのさん(93)、祖父秀雄さん(74)、祖母芳子さん(72)、父芳弘さん(43)、母美江子さん(41)、妹の美穂さん(15)と美輝さん(6)=年齢はいずれも当時=が帰らぬ人となった。

家族で残ったのは一人きり。杉ノ下地区の自宅も流され、親戚の家に身を寄せた。心配する周囲から「7人の分まで頑張って生きて」と励まされた。

高校3年の時、面識のない人から手紙が届いた。「人生は1人分。あなたの人生を生きればいいのよ」。7人分。それが重荷になると気遣ってくれた。「ふっと心が軽くなった」

大学に進み仙台市で暮らすうち、古里で働く思いを強めた。親戚は頼りになり、田んぼを委託した農家のおじさんは作ったコメを届けてくれた。自宅跡の草むしりをしてくれるボランティアに「申し訳ない」と思うことも。支えてくれる人たちが古里にいた。

「社会人になったら人に任せっきりにできない」。ひたすら勉強し、管理栄養士の国家試験に一発で合格した。「震災遺児として授業料も生活費も支援をもらう私に、試験に受からない選択肢はなかった」と多くの人に感謝する。

祖母と父、美穂さん以外、見つかっていない。でも、あの頃の記憶のまま、自分の中で生きている。

「ただいま」。自宅跡は海に向かって風が強く吹く。「当たり前のことが、当たり前ではない。毎日を大切に生きていきます」

河北新報