ネパール地震

【ネパール地震】大量の遺体、悲しみに圧倒される火葬業者 ネパール地震

ネパールで30年間火葬業を営んでいるカドガ・アディカリ(Khadga Adhikari)さん(55)は、心を悲しみで満たしながら、また運び込まれてきた幼い地震犠牲者の遺体の胸に、一握りの米粒と1枚の硬貨を置いた。

 

「私は自分で火葬してきた人たちの大半を覚えていない」「でも子どもの場合はすごく心が痛む。死ぬには早すぎる」

 

【ネパール地震】大量の遺体、悲しみに圧倒される火葬業者 ネパール地震

(Photo by bmaharjan)

 

4月25日にマグニチュード(M)7.8の地震が首都カトマンズ(Kathmandu)を襲って以来、アディカリさんと同僚たちは、次々と運ばれてくる遺体への対応に追われている。

 

死者はヒンズー教の教えにのっとり、白い布で巻かれてまきの上で燃やされるが、一時はこのための木が足りなくなるのではないかと懸念されたほどだ。

 

つかの間の休憩時にAFPの取材に応じたアディカリさんは、これまで長く死者と向き合ってきたものの、多くの遺族らの悲しみを目の当たりにして動揺したと語った。

 

地震が起きた日の夜は、6歳の少年を含む3人の子どもを火葬した。同市の有名なパシュパティナート(Pashupatinath)寺院で葬儀が行われている間、家族はずっと泣き続けていたという。

 

まきに火をつけるのは伝統的に死者の長男と決まっている。そのため両親が子どもを先に見送るというのは、とりわけ痛ましい。アディカリさんは、損傷した男の子の遺体を白い布でくるんだときのことを思い出し、肩を震わせた。

 

「死ぬのは年老いた人々だと思いがちだ。災害によって幼い子どもが早死にすることは、本当に痛ましい」

 

地震発生から夜が明けるまでに、彼はさらに2人の子どもと数人の大人の遺体を火葬した。人生で「最もつらい夜だった」と彼は振り返る。次から次と運ばれてくる遺体で、パシュパティナート寺院にある野外火葬場はまるでサウナ状態となり、アディカリさんもめまいがしたという。

 

「誰もが深い悲しみに包まれ、私は火葬を終えるたびに力が奪われていくような気がした。でも皆、火葬しなければいけない遺体を抱えていた。ほかにどこに行けばいいと?」

 

■満杯の遺体安置所、氷で保冷も

 

アディカリさんを含め27人がパシュパティナート寺院の火葬上で働いている。世界遺産にも指定されている同寺院では、地震以来、何百人もが火葬されてきた。同寺院や各地の村々では、身元が特定できなかった遺体の共同火葬も行われた。

 

一方、各地の遺体安置所は、警察や家族による身元確認を待つ遺体であふれている。

 

カトマンズのトリブバン大学教育病院(Tribhuvan University Teaching Hospital)では、遺体を氷で冷やしたり、通常1体しか安置できない場所に2体置いたりする措置を強いられている。

 

同大学病院の法医学部長はAFPの取材に「私たちの安置所は20人分しか収容できず、平時でも足りていない。今回の地震のような災害では圧倒されている」「氷を使ったり、冷蔵室に倍の数の遺体を入れたりしている。

 

休む暇もなく、まだ身元が特定されていない遺体が37体ある」と語った。

 

AFP

 

【ネパール地震2週間】2人の分も生きる 妻とおなかの子、失った男性

カトマンズ

 

ネパールを襲ったマグニチュード(M)7・8の大地震から9日で2週間を迎える。

 

がれきの間を通り抜ける人や車が増え、街はゆっくりにぎわいを取り戻しつつある。

 

「悲しむばかりではだめだ。二つの命の分まで生き抜く」。

 

【ネパール地震2週間】2人の分も生きる 妻とおなかの子、失った男性

 

首都カトマンズ近郊サンクーで雑貨店を経営するブペンドラ・バシさん(42)も、2人目の子を宿したまま亡くなった妻ヤソダさん(38)にそう誓い、自宅と店の再建に動き出した。  

 

「食事の用意ができたから戻って来て」。4月25日正午前、ヤソダさんからの連絡で自宅に入ろうとした瞬間、強い揺れに襲われた。

 

れんが造りの3階部分が、目の前で崩れ落ちた。急いでがれきをどけると、かすかに息をする妻がいた。近くの病院に運んだが、だめだった。

 

ヤソダさんと結婚して5年。「親戚を含め8人の大家族だったが、皆に優しく、すぐに溶け込んでくれた」。長女ナムラタちゃん(4)を授かり、2人目が4カ月に入っていた。「男の子か女の子か、どちらだろう」「子供にいい暮らしをさせるため、もっと仕事を頑張ろう」。毎日の会話が楽しかった。

 

「あと数分早く家に帰っていたら妻とおなかの赤ちゃんを救えたかも」。被災直後、避難所の小学校で布団にくるまるたび、そんな思いにとらわれた。

 

「いつお母さんと会えるの」。別の場所で助かり、今は親戚に預けているナムラタちゃんからの電話にもまだどう答えていいか分からない。  でも、少しずつ気持ちに変化が出てきた。

 

「自分だけが悲しいわけではない」。近所には3人、4人と家族を失った人がいる。命日から13日目の7日、ヒンズー教の教えに従って川で身を清め、2人の冥福を祈った。  

 

「妻は生まれ変わってもっと良い生活ができるはずだ。いつまでも悔やんでいてはつまらない」。悲しみを振り払い、がれきと化した自宅や店の整理を少しずつ始めている。

 

「生活を立て直すためには住む場所と仕事が必要だ。政府に低利で資金を貸してほしい」とバシさん。そしてヤソダさんに誓う。「もっと仕事を頑張って必ず再起してみせる。見ていてほしい」  

 

毎日新聞

【ネパール地震】震源地バルパク「ツナミにやられたようだ」

◇標高2000メートル 「ドルルルル」大きな揺れが2分間  

 

【バルパク(ネパール中部ゴルカ地区)金子淳】

 

ネパール大地震震源地の村バルパクに4日、入った。

 

標高約2000メートル。急な斜面を5時間かけて登り切った先に、これまで見たことのないような多量の石や廃材があった。尾根に広がる村の中心地のはずだった。

 

【ネパール地震】震源地バルパク「ツナミにやられたようだ」

 

「道の両側に家や店が並んでいたが、全てなくなった。ツナミにやられたようだ」。鳥のさえずりが響く中、村人が言った。  

 

中部ゴルカ地区の中心都市ゴルカからふもとの村バルワまで四輪駆動車で約3時間。そこから約1000メートルを登った。

 

道は至るところで崩れ、巨岩が転がっている。ネパール軍兵士がむき出しの斜面をシャベルで削り、階段を付けていた。  

 

何度も大きなかごを背負った人とすれ違った。バルワまで救援物資を取りに行くバルパクの村人だ。女性や子供、老人も多い。

 

雑貨店経営のチョウンさん(41)は、バルワの学校で寮生活をしていた息子(14)を捜しに行く途中だった。  

 

バルパクは山頂に近い尾根の上に約1500戸が集まっており、外国人旅行者も訪れる風光明媚(めいび)な土地だった。だが、大地震で9割以上が倒壊し、約70人が死亡。残った家屋も柱や壁が壊れ、人が住める状態ではない。

 

車が通れた山道は崖崩れで寸断され、村は孤立した。一面の茶色いがれきの中にたたずんでいたアズテックスミー・ガレさん(22)は「美しい村だったのに完全に壊れてしまった」と、目に涙を浮かべた。  

 

「ドルルルル」。4月25日の昼、マグニチュード(M)7・8の大地震で、バルパクではごう音とともに大きな揺れが約2分間続いた。大工仕事をしていたテクバードル・ガレさん(50)は、山のあちこちで地滑りが起き、もうもうと空に舞い上がる土煙を見た。  

 

石細工師のチェバードゥル・グルムさん(51)は自宅の庭で仕事をしていたが、激しい横揺れで思わず地面に倒れ、一瞬気を失った。

 

気がつくと自宅は崩れ、中から母(65)の叫び声が聞こえた。「ここから出して」。夢中で掘り、めい(7)らを助け出したが、約20分後に再び大きな余震が起きた。すると、がれきの中から炎の柱が噴き上がり、自宅は黒焦げになった。  

 

娘(5)ら4人が見つかったのは6日後。歯と小さな骨片だけになっていた。「何も残らなかった。でも怒っても仕方がない 」 

 

発生から約4時間後、一度、軍のヘリが上空に来たが、着陸せずに飛び去った。村人はがれきの中からわずかな米を見つけ出し、ひとつまみずつ分け合ったという。

 

その夜、雨が降った。誰もが眠れず、広場をうろうろ歩き回った。  最初の救援物資が届いたのは翌日。インド軍のヘリが飛来した。その後も1日数回ヘリは来るが、テントは数家族に一つだけと、何もかもが不足している。  

 

だが、村人には明るさがあった。子供はテントの周囲を駆け回り、女性は井戸で洗濯しながら時折、笑い声を上げていた。かろうじて残った雑貨店で食事や飲み物の在庫を売っていたウサデビ・ガレさん(42)は「ここもいつ崩れるか分からず怖いけれど、人が来るから店を開けた」と、照れくさそうに笑った。  

 

下山中、救援物資をかごに積んだ村人たちが続々と登ってきた。その中に、見覚えのある顔があった。ふもとまで子供を捜しに行くと言っていたチョウンさんが、打って変わったような晴れやかな笑顔で言った。「やっと息子に会えたよ。気をつけて」

 

毎日新聞

【ネパール地震】がれきの中 体横たえ 次女かばい逝った母

【チョータラ(ネパール中部シンドゥパルチョーク地区)竹内良和】

 

ネパールの大地震で最大規模の被害が出たシンドゥパルチョーク地区で、家の下敷きになって亡くなった女性の体の下から、4歳の次女が無事救出された。

 

女性は地震の3日前に三女を出産したばかりで、ベッドに横たえた体で次女をかばった。「妻のような強い女性に」。残った夫は、1人も欠けずに命をつないだ3人の娘を、妻の分までしっかり育てようと誓っている。

 

【ネパール地震】がれきの中 体横たえ 次女かばい逝った母

 

地元政府関係者によると、カトマンズ北東の同地区では、4日までに人口約30万人のうち約3600人が死亡したとの情報もある。

 

レンガ造りの民家や商店は軒並み倒壊した。

 

地区の中心地チョータラで、妻ラクシミさん(26)を失ったラトナ・バニアさん(26)と母、3人の娘の一家5人は、がれきから拾い集めたシートと木の枝でテントを建て、避難生活を送っている。  

 

 

先月25日、3日前に三女を出産したラクシミさんは体調を崩し奥の部屋のベッドで休んでいた。腕の中では次女アスタちゃん(4)が昼寝をしていた。

 

突然揺れに襲われ、ラトナさんはとっさに長女と三女を家から連れ出す。

 

妻と次女を助けに戻ろうとした時、家が潰れた。

 

やがて、兵士たちが来てがれきをどかした。妻の体が見えた。体の下に作った隙間(すきま)で次女を守るように、四つんばいの姿勢で息絶えていた。「アスタ、アスタ!」。次女を呼ぶと「ハイ」と返事が聞こえた。脚をすりむきながらも無事だった。  

 

子供が好きで、働き者の妻だった。小さな畑を耕していたほかは、ラトナさんが行商のポーター役などで得るわずかな収入があるだけで、暮らしは貧しかった。

 

妻はしばしば自分の食事も娘たちに与えた。自分が十分な教育を受けられなかったせいか、家事や畑仕事の合間をぬって、娘たちの様子を学校まで見に出かけ、家でも勉強するよう促していた。  

 

「チョコレートが好きなの」「大きくなったらパイロットになりたい」。

 

1歳上の姉とはしゃぐアスタちゃん。だが、母の話題になると姉妹は泣き出す。だからラトナさんは口にしないようにしている。「でも、死ぬまで妻を忘れない。この胸の中で生きている」  

 

籐(とう)のかごで眠る三女の名前は決めた。「サパナ」。ネパール語で「夢」を意味する。「どうか妻の死は夢であってほしい」との思いを込めたという。 

 

朝日新聞

【ネパール地震】「勉強を大切に」ナビン君、父の言葉を胸に

最大規模の被害村の13歳 おじに引き取られ  

 

ネパール大地震で、最大規模の被害が出たシンドゥパルチョーク地区の村に住んでいたナビン・シャンタン君(13)は、大好きだった父を亡くした。

 

幼い頃に母は他界しており、1人になってしまったナビン君は地震後、カトマンズのおじに引き取られた。

 

【ネパール地震】「勉強を大切に」ナビン君、父の言葉を胸に

 

まだあどけなさの残る少年に、将来のことを考える余裕はない。ただ、いつも勉強の大切さを教えてくれた父の言葉を胸に抱いて生きていこうとしている。

 

ナビン君は1歳半の時、母を病気で亡くした。家が貧しく、母はまともに病院にかかることもできなかった。その後は、父ナラヤンさん(39)と2人きりで暮らしていた。

 

地震があった時は外出し、大好きなサッカーに興じていた。揺れに襲われ、村人が避難していたテントに身を寄せた。父は昼食のために家に残っていた。

 

村の民家約100軒の大半が倒壊し、多数の死者が出たという。「今は危険だ」。父を捜しに家に戻ろうとすると周囲に引き止められた。「お父さんが心配でずっと泣いていたんだ」。3日後、やっと戻ったが、父は潰れた家で息絶えていた。

 

真面目で、無口な父だった。登山客に同行して荷物を運ぶ「ポーター」が仕事で、長期間留守にすることが多く、ナビン君はよく祖母の家で過ごした。地震の時も、父は1カ月半ぶりに山から戻ってきたところだった。

 

満足な教育を受けられなかった父は、ぎりぎりの暮らしを支えるため畑仕事もした。自分のような苦労をさせたくなかったのか、ナビン君が学校の宿題をせずに友達とサッカーをしようと出ていくと、よく「自分のために勉強をしなくてはだめだ」としかった。

 

ナビン君のささやかな楽しみは、夜、父と一緒に眠ることだった。目の前の大きな背中。「時々しか一緒に寝られないけれど、安心できた」という。

 

地震後、祖母は体調を崩して入院。ナビン君を引き取った、おじのリラ・ワイバさん(30)は「両親がいなくても、しっかり教育を受けさせてあげたい」と思いながらも、自身も幼い子が2人いるため、どう生計を立てようかと悩んでいる。

 

ナビン君は、これからどうしていいのかも分からない。「自分のために勉強を」。ただ、父の言葉だけは守ろうと思っている。 

 

毎日新聞

 

【ネパール地震】「崩れた家の下に妻が…子供はまだ母親を待って」

「数日間、あんなふうに一言もしゃべらず崩れた家だけを見つめています」。

 

ネパールにマグニチュード7.8の強震が起きてから1週間が去った2日、カトマンズ近郊の街ラリットプールのテントで会ったサンドラソバ・マハルジャン(35、女性)は、姉の夫カジラル・マハルジャン(52)を痛ましい目で見つめていた。

 

【ネパール地震】「崩れた家の下に妻が…子供はまだ母親を待って」

 

深く刻まれたしわ、黒くやけた顔をしたカジラルは、ずっと目をしばたかせていた。涙が流れるからだ。

 

カジラルは先月25日、地震で妻を失った。家が揺れた時、彼らが最初に叫んだのは8歳の娘の名前だった。

 

2階の家の屋根で電線を直していた彼は「アンジェリーを探せ」と叫び、妻は家の中を探し始めた。しかし1分もたたず支柱だったレンガが崩れて階段を襲った。妻は崩れた階段の下敷きになって亡くなった。2階でジャムを作っていたのが彼が最後に見た妻の姿だった。

 

サンドラソバは「家の中では姉さんがアンジェリーを呼び、外ではアンジェリーがママを呼んで家に飛び込んでいった」として「片腕で私の息子を抱き、もう片方でアンジェリーの腕をつかんで家の外に引き出し2人の子供の命は助かった」と話した。

 

運良く生き残った者にとっても人生は苛酷だ。生活の拠点がなくなった上に救護物資も非常に不足しているためだ。

 

バクタプル中心街から30分ほど離れたチャグンという村のルース・ラル・タマング(38)は「5家族40人が1つのテントで寝るが、雨が降ればテント内が水浸しになる」と話した。

 

ワールドビジョンネパール地域のリズ・サト責任者(national director)は「災難地域の必須救護品である防水布や水、毛布などはもちろん食べ物も不足している状況」と話した。

 

その上、首都カトマンズは事情がまだましなほうだ。地震被害の激しいバクラプルや震源地であるコルカは、村の入り口にも車で30分~1時間ほど上がって再び10~20分ほど歩いて入らなければならない人里離れた村が多く、救護物資支援が容易ではない。

 

彼らはいつ余震がくるかも知れない村でずっと過ごさなければならない。

 

サンドラソバは「地震が恐ろしくて村を離れるという人もいるが、当然行く所がない私たちはその意欲がない」といった。

 

「臨時テントをはったこの土地も私たちのものではないので地主がきて出て行けといえば追い出されるしかない」。

 

子供に母親の死を理解させるのも大変な宿題だ。サンドラソバは「アンジェリーに母親の死を説明する方法がなく『ママは叔父さんのところに遊びに行った』と話しておいた」として「夜ごと母親を探す子供を、いつまでなだめられるか分からない」と話した。

 

しばらく言葉を失っていたカジラルは何とか重い口を開いて「家の下に妻がいる」として「遺体を探して葬儀を行うまでは何もできず、したくもない」と話した。

 

ワールドビジョン緊急救護後援02-2078-7000。

 

◆3日現在死亡者7000人超=2日(現地時間)崩れた家に閉じ込められていた101歳の男性が救助されたとAP通信が報道した。

地震発生7日ぶりに救助されたこの男性はすぐに病院に運ばれ今は無事だと地域警察は伝えた。

3日にはネパール北東部地域の山岳の村で男女3人が軍部隊によって救助された。この日までに死亡者は計7056人と集計された。

 

中央日報

【ネパール地震】震源近く、立ちすくむ村 8歳娘、目の前で失う

ほとんどの家が全壊し、石や木材ががれきの山となって斜面に取り残されている。あちこちで、押しつぶされた家畜のヤギや牛が横たわり、ハエがたかっている。

 

カトマンズから車で計8時間。震源に近い未舗装の山道の先は、土砂崩れで完全にふさがれていた。車を降り、林や段々畑の広がる急斜面を1時間ほど登ると、壊滅した集落があった。

 

【ネパール地震】震源近く、立ちすくむ村 8歳娘、目の前で失う

 

約200人が住むゴルカ郡ポハラター村。住民たちが、屋内に貯蔵していた米や穀類をがれきの隙間からかき出して集めていた。

 

村人らによると、この村では家屋40戸のほぼすべてが倒壊し、12人が死亡した。ヒム・ラナマガーさん(37)、スニタ・ラナマガーさん(32)夫妻は、3棟あった自宅がすべて壊れ、次女ビピサさん(8)を失った。

 

地震発生時、ヒムさんは仕事で他の村にいた。急いで戻ると、胸から下が近所の家の下敷きになった状態で、ビピサさんが倒れていた。住人たちと手作業でがれきを取り除いて助け出したが、手遅れだった。

 

背中をけがした長女のビニタさん(14)は、妹を亡くしたショックでしゃべれなくなった。ときどき、自宅のあった場所で1人で泣いているという。ヒムさんは「食事も寝るのも、ビピサと一緒だった。ビピサに会いたい」と声を絞り出した。

 

人々は、農業と牧畜で自給自足の生活をしてきた。ふもとの小さな発電所から電気も引いていた。だが、いまは重機を入れるスペースもなく、がれきは地震発生直後のまま。みなテント生活を送っている。

 

4月27日から、ボランティアチームなどが、ふもとまで米などの食料を届けるようになった。ほぼ毎日、村の青年たちが背負って運んでいる。

 

ビンマル・タパモガーさん(22)は「とても重いし大変だ。地震の前は清潔で豊かな暮らしだったのに。元通りにするには、50年ぐらいかかるんじゃないか」と話した。

 

ゴルカ郡では約400人が死亡したとされる。現地で支援活動をしている国連児童基金ユニセフ)のネパール事務所によると、震源地付近を含む山間部に近づくのは難しく、援助が十分に行き届いていない。

 

ポハラター村のふもとまで被害状況を調べに来ていた国連の災害調査チームのブルノー・ブリアクさんは「今回の支援の難しさは、被害を受けた村があちこちに散らばっていることにある。ヘリコプターを使わないと、物資を運べない場所も多い」と話した。(ポハラター村=中野寛)

 

世界遺産の街「客消えた」

 

カトマンズ近郊、バクタプル市の世界文化遺産「ダルバール広場」。ヒンドゥー教寺院の本殿は崩れ、土台しか残っていない。他の建物の多くも崩れている。

 

「予約で埋まっていたのに地震で客が消えた」。近くの宿で働くサンジェイ・ナガさん(45)は嘆いた。

 

カトマンズ首都圏にある世界遺産は7カ所。バクタプル、カトマンズ、パタンの3市では、15世紀以降の旧王宮や寺院群が集まる同名の「ダルバール広場」が、それぞれ世界遺産に指定されている。

 

国連教育科学文化機関(ユネスコ)のネパール事務所によると、3カ所では寺院の5~8割が倒壊。マンハート所長は「復元には10年はかかる」と言う。

 

同国観光省によると、世界遺産やヒマラヤの山々を目当てに2013年には80万人の外国人が訪れ、4億1300万ドル(約500億円)を消費した。観光業で100万人以上が働く。ゴータム観光局長は「観光資源が失われた。復活を目指すしかない」と話す。

 

カトマンズ中心部、ふだんは外国人観光客が多いタメル地区では1日、通りに面した土産物店などは半分が営業を再開。稼働し始めたATMの前に市民らが長い列を作っていた。観光客の姿はほとんど見えない。

 

公園にできたテント村では、4月30日を境に野営者が減った。市内で電気の供給が戻り、自宅に帰る人が増えた。テント生活を続けるシバ・プラサド・ポウデルさん(64)も「水も食料も足りている」と話した。  

 

ネパール山岳協会によると、雪崩が起きたエベレストでは、ベースキャンプから希望者全員が下山した。登山の継続を希望する登山者ら約50人が残っているとの情報もある。

 

被害の全容は政府も把握できていない。内務省のダカル報道官は「行方不明者数も集計できていない」。

 

復興には、50億~100億ドル(約6千億~1兆2千億円)が必要との試算や見通しが、米シンクタンクなどから出ている。最大でネパールの国内総生産(GDP)の半分に当たる規模で、国土の再建には相当の時間がかかりそうだ。 

 

朝日新聞

【ネパール地震】2日前に母と最後の会話、訪日留学生語る

◆家族2人亡くす  

 

ネパール大地震で、朝日大大学院経営学研究科のネパール人研究生クスマ・カルパナさん(28)=名古屋市=は、母のニシリさん(69)ら家族2人を亡くした。

 

クスマさんは地震の前日にニシリさんと話したばかりだった。29日に取材に応じ「もう会えないなんて」とおえつした。  

 

【ネパール地震】2日前に母と最後の会話、訪日留学生語る

 

クスマさんは首都カトマンズから東に約15キロの古都バクタプルの出身。2010年4月から同大に留学している。  

 

25日、地震の発生を知って家族に電話をかけたがなかなかつながらず、ようやく兄と連絡がついた。「大丈夫だ」。そう言われたが不安を拭いきれず、一晩中、電話をかけ続けた。

 

26日朝につながった近所の人から、ニシリさんと義理の妹が家の下敷きになって亡くなったことを告げられた。「つらさのあまり、その後の2日間はどのように過ごしたか覚えていません」と吐露する。

 

◆「住む所も食べ物もない」  

 

地震の前日、ニシリさんとインターネット電話で話した。地元で祭りが開かれるため、自宅にはニシリさんの孫ら7人が集まっていた。ニシリさんは数日前にぜんそくの発作が出たが、治療を受け元気な様子。

 

半年ぶりに見た母の顔は家族に囲まれ、幸せな表情を浮かべていた。話しが弾んだ。クスマさんは2年以上帰国しておらず、母は寂しさのためか

 

「会いに来てほしい」とこぼした。最後の会話になった。  

 

「住む所も食べ物もない」という兄の勧めに従い、帰国せず日本にとどまっている。

 

日本に住むネパール人の仲間らと募金活動を始めた。「さまざまな国が支援してくれているが、カトマンズの近郊には支援が届いていない。食べ物や薬、幼い子の服を届けてほしい」と支援を求めている。 

 

岐阜新聞

【ネパール地震】「娘は私の全てだった」 悲しみの捜索現場

ネパール当局の救助隊が、自宅のがれきの中から既に動かなくなった14歳の娘を運び出すのを見て、ダヤラム・マハトさんは悲しみのあまり地面に崩れ落ちた。

 

「娘は私の全てだった。なにも悪いことはしていないのに」。重機や素手などあらゆる手段を使った懸命の救助活動の終わりを目の当たりにし、マハトさんはこう嘆いた。

 

【ネパール地震】「娘は私の全てだった」 悲しみの捜索現場

 

ネパールをマグニチュード(M)7.8の大地震が襲った25日昼、マハトさんは仕事に出ていたが、家族のほとんどは首都カトマンズ(Kathmandu)の住宅密集地区バラジュ(Balaju)にある自宅にいた。

 

石造の家屋が崩れ落ちる中、一家はすぐに外に避難したが、居間にいた娘のプラサムサさんと、そのおばのチャンドラワティ・マハトさんがいないことに気付いた。

 

「あっという間だった。家が傾いて、崩れ落ちた」とマハトさんは語った。「全ての重みが1階部分にのしかかった。私たちは最初の2日間、彼女らの名前を叫び続けたが、がれきの中に入ったり、中の様子を確認したりするための隙間はなかった」

 

マハトさんは娘の生存を信じ、救助隊に捜索を懇願したが、余震が続く中での作業は危険すぎるとして断られた。

 

27日朝になってようやく周辺地域での捜索活動が始まったが、マハトさん宅に続く細い路地はがれきでふさがれており、家に到達するには重機による撤去作業を行う必要があった。

 

家での作業を開始した救助隊はハンマーで少しずつ割ったれんがを慎重に手で取り除き、そうしてできた狭いトンネルに1人の救助隊員が潜り込んでいくと、集まっていた人たちは息をのんで見守った。

 

その救助隊員は間もなく1階部分の内部に到達。最初に取り出されたのは書類や、家族写真を収めたアルバム、写真額などだった。マハトさんは写真額の割れていなかったガラスのほこりを払うと、「ほら、これが私の娘だ」と話した。

 

「彼女の顔を見てくれ。なぜ私が助け出してやれなかったんだろう」  

 

マハトさんが、娘が勉学に励んでいたことについて話し始めると、救助隊員の一人が近づいてきて、マハトさんの耳に何かをささやいた。

 

「娘が見つかった。死んでいた。死んでいたんだ。私はどうすればいいのか」(マハトさん)。他の家族がすぐにマハトさんを取り囲んだ。

 

救助活動が始まってから2時間足らずで、プラサムサさんの遺体はがれきのなかから運び出された。親族の男性たちが早くも火葬の手はずについて話始める中、マハトさんは、恐れていた最悪の事態を受け止めようとしていた。

 

「娘は死んでしまった」。マハトさんの頬に、涙が流れ落ちた。 

 

AFP