【東日本大震災】不明6年、夫の死亡届提出 75歳妻が決意

岩手県陸前高田市広田町の熊谷幸子(さちこ)さん(75)が、東日本大震災で行方が分からなくなった夫、磨(みがく)さん(当時71歳)の78歳の誕生日となった2016年6月14日、市役所に死亡届を提出した。

「本当にいなくなってしまう」とためらい続けてきたが、6年がすぎ、「供養してあげなくちゃ」と思えるようになったと言う。

届け出た幸子さんの表情は穏やかだった。

2011年3月11日。幸子さんは外出先で地震に遭遇した。高台にある自宅は津波の被害を免れたが、磨さんの姿はなかった。

地震直後、自宅から坂を下りていく磨さんを目撃した人がいた。以来、行方は分からない。  

50年近く連れ添ってきた。死亡届を出すと本当にいなくなってしまう気がした。

幸子さんは震災後、磨さんに話したいことがあると、カレンダーの裏に思いをつづってきた。  

心に変化をもたらしたのは、今年3月11日の追悼式だった。

七回忌を迎える遺族が多い中、津波で流された夫が遺体で見つかったという中学時代の友人と話しながら、「周りの人は供養しているのに、私は何もしていない」と感じた。

4月10日、こう記した。

「見送らなくちゃと思えるようになりました。貴方(あなた)も苦しんだでしょ ご免なさい」  

周りの助言もあり、死亡届の提出日を磨さんが生まれた6月14日と決めた。

それでも心は揺れ続けた。

今月11日、白紙の死亡届を前に涙がこみ上げた。

13日、「磨さん いよいよ明日ですよ 叱咤(しった)激励 自問自答です。出しますよ」と書いた。

14日、自宅の仏壇にある磨さんの写真に死亡届の提出を報告した。  

「よく我慢したね。ご苦労さま」。

磨さんの優しい声が聞こえた気がした。

「落ちついたら夢で会いましょう。そっちにつくのに何日位かかるんでしょうか。着いたら電話よこして下さい。待ってますよ」。

カレンダーの裏に返事を記した。  

手紙は250枚以上になった。幸子さんはこの日を区切りとして、磨さんのパジャマや愛用のジャケットなどと一緒に燃やし、供養したいと思う。

だが、カレンダー裏の“恋文”は書き続ける。  

「私の周りにはいるよね。いなくなるわけじゃないよね」。三陸の空は14日、淡く優しい青色をしていた。

毎日新聞

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