【東日本大震災】大震災6年 命救った消防団員の息子を「褒めてあげたい」

【東日本大震災】大震災6年  命救った消防団員の息子を「褒めてあげたい」

◇近所の人から感謝の言葉 福島・浪江の渡辺昭子さん

海がよく見える福島県浪江町の高台で、渡辺昭子さん(67)は真新しい御影(みかげ)石に刻まれた碑文を見つめた。東日本大震災の発生から6年を迎えた11日午前、津波の犠牲者182人の名前をとどめる町による初の慰霊碑が除幕された。一人息子の潤也さん(当時36歳)は消防団員として活動中に命を落とした。県内の行方不明者196人の一人。県警による捜索はこの日も、近くの海岸で続けられた。

「津波が来るかもしれない。役場に逃げた方がいいよ」。強い揺れに襲われた直後、すぐ隣で理容店を営む潤也さんが駆け付けてきた。「オーライ、オーライ」。昭子さんの車を誘導すると、消防団員として見回りに出かけた。優しい目をした息子と会う日はもう訪れなかった。自宅は津波に流された。

中学3年まで昭子さんと一緒の布団で寝る、甘えん坊だった。運動神経が良く、野球に打ち込んだ。理容店を継いでからも地元でシニアチームの監督を務めた。身長180センチでがっしりした体格の一方、大きな声を出さない優しい性格だった。「頑丈な子だったから、どこかで生きているんじゃないか」。そう願わずにはいられなかった。

震災から約1カ月後。息子の夢を見た。「寒い、寒い」と言って幼い頃のように布団に入ってきた。「ごめんな」。大きい体を震わせて繰り返す息子。必死に温めるうち、目が覚めた。「亡くなる間際の様子を知らせてくれたのかな」

息子と救助活動していた消防団員に偶然会い、潤也さんの様子を聞いた。川で助けを求める知人を救い出した後、別の知人の車に乗って逃げる姿が最後だったという。「消防団に入れなければ良かった」と自分を責め続けた。

その後、近所の人たちから「家にいたら潤也に『逃げて』と言われた。あのまま家にいたら助からなかった」と感謝の言葉をかけられ、少し気持ちが落ち着いた。息子の死は受け入れられないが「褒めてやりたい」と思えるようになった。

2012年3月10日、意を決して葬式をした。いつも着ていた体操着や好物だったコッペパンを海にささげた。「私の子どもでいてくれてありがとう。ずっと一緒だよ」

東京電力福島第1原発事故で、自宅があった請戸地区は警戒区域となり、立ち入りが禁じられた。「原発事故さえなかったら助けられたかもしれない。助けられなくても遺体を家に連れて帰って抱きしめることができたはず」。6年たった今も恨みは消えない。

慰霊碑の除幕式に潤也さんの長女で仙台の大学に通う紗彩(さあや)さん(19)も参列した。震災を経験し、毎年2月の「請戸田植え踊り」に踊り子で参加するようになった。潤也さんも楽しんだ300年続く伝統芸能。今年も「お父さんが見てくれている」と懸命に舞った。

浪江を離れ、福島市に家を買った。「潤也の家」と思い、潤也さんの妻や子と暮らしている。「区切りはつけたくない。でも慰霊碑が建てられたことがうれしい。潤也を思う気持ちが届いたかな」

毎日新聞

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