【東日本大震災】人々のつながる場所作り テイラー基金手伝い、生きる励みに

【東日本大震災】人々のつながる場所作り テイラー基金手伝い、生きる励みに 2011年3月11日 東日本大震災 地震 津波 火災 福島原発事故

「恨んでいる相手と一緒にいるのはつらいだろうから、離婚して東京の実家に帰るか?」

夫のその言葉を聞いた後、遠藤綾子(りょうこ)さん(48)は気付いた。

「子煩悩な父親」

「つらいのは夫も同じ」

夫の伸一さん(48)は「『子はかすがい』。たとえ命が亡くなっても夫婦をつないでくれたのは子供たちだ」と話す。

「花、侃太(かんた)、奏(かな)にとって父と母は俺と綾子に変わりない」

 

「外人って見たことある?」

奏ちゃんが小学1年のころ、伸一さんに得意げに問いかけた。明るい髪色の外国人女性が授業で英語を教えてくれた。「『お笑い好きの楽しくてかわいい先生』だと話してくれた」(伸一さん)

綾子さんは「その先生こそ、テイラー・アンダーソンさんだったのだと思います」とほほ笑む。

アンダーソンさんは平成20年、宮城県石巻市に英語の補助教師として赴任、7つの学校で教えていた。任期満了まで半年を切った23年、津波の犠牲となった。

伸一さんが生きる意味を見いだすきっかけを得たのは、アンダーソンさんの両親からだった。

父のアンディーさんと母のジーンさんは震災直後、娘の名を冠した「テイラー・アンダーソン記念基金」を立ち上げた。夫妻は基金をもとにテイラーさんが勤めた学校に英語の本「テイラー文庫」を贈り始めた。

木工職人の伸一さんは本棚作りを任され、計11校に納めた。学校ごとの広さやニーズに合わせ、工夫を凝らした。

 

ボランティアで渡波地区に何度も足を運んできた人たちとの関係も、遠藤夫妻の生きる励みとなった。

夫妻は震災翌年、自宅跡地にコンテナハウスを建て、26年3月には伸一さんがその隣に木製遊具を作った。夫妻の悲しむ様子を見守ってきた仲間たちが、2人を勇気づけようと勧めたのだ。

遠藤家の自宅と別宅は津波で全壊し、土台しか残らなかった。伸一さんは「子供たちと幸せに過ごした場所にはもう戻れない」と設置前の気持ちを振り返る。

だが、コンテナハウスや遊具は人の集まる“基地”へと変わっていった。昨夏、震災当初から地区で支援活動に参加したボランティアの男女が基地で結婚式を挙げた。250人を超える人たちが集まった。

「木工で人の集まる場所を作って残せた。子供たちはきっと喜んでくれる」

伸一さんは当時の心境の変化をこう語る。基地は保育所を拠点に助け合った人々のつながりを表し、渡波保育所を略して「チームわたほい」と名付けられた。

 

基地では、綾子さんや近隣女性たちの集まりが定期的に開かれている。

27年秋、綾子さんを訪ねたジーンさんがある提案をした。着物地のスカーフを手に「日本の伝統的な柄で何か作れたら…」。綾子さんはその言葉からあいさつ状のカードを作ることを決め、地元の女性たちと製作に取りかかった。

テイラー基金や関係者の支えもあり、カード作りは昨秋、ワシントンにあるナショナルギャラリーの担当者の目に留まった。今年2月から同館のギフトショップで販売されている。

あるとき、綾子さんはジーンさんに尋ねた。「お嬢さんを日本に行かせたことを後悔していないか」。「娘の好きだった国に行かせてあげられたことはうれしかった」とジーンさん。

綾子さんは「子供たちがお世話になったテイラーさんとの関係は切っても切り離せない」と話す。

夫妻は27年9月、東松島市のみなし仮設住宅から石巻市の復興公営住宅に移り住んだ。室内には津波で泥を被った子供たちの写真がある。綾子さんは「写真を見るには気持ちの整理がまだつかない。でも現実を克服しなくちゃ」と語る。

自宅跡地の木製遊具の傍らに3体の地蔵がある。花さん。侃太君。奏ちゃん。遠藤夫妻はこれからも3人の父母として生きていくことを誓う。

産経新聞

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