【阪神淡路大震災】亡き母へ「この子抱っこしてほしかったな」

また、この日がめぐってきた。

1月17日。祈りをささげる人に応えるかのように、前夜からの雨がやんだ被災地。人々は、つらい思い出を改めてかみしめ、犠牲者を悼んだ。

阪神大震災から20年。

いまだ肉親の死を受け止められない人がいる。一方で新しい命が生まれ、母として強く生きていこうとする人もいる。震災の記憶を伝える責務を負って、だれもが未来に向けて歩いていく。

 

阪神・淡路大震災「1.17の記録」

(写真提供:神戸市)

 

「赤ちゃんが生まれたよ。抱っこしてあげてほしいな」-。

17日、神戸市中央区の東遊園地で行われた追悼行事。多くの遺族が、明日への誓いを新たにした。

阪神大震災で母親を失った同区の主婦、早川美幸さん(27)は7カ月の長男を抱いて参加した。母の記憶は断片的にしか残っていない。だが、母親になったからこそ、母の気持ちがよく分かる。「お母さんに少しでも近づけるようにがんばるからね」

平成7年1月17日。母、裕美子さん=当時(43)=が検査入院していた同市長田区の市立西市民病院は、激しい揺れに襲われた。病棟の5階部分が崩れ、裕美子さんを含む44人が生き埋めになった。次々と救出されたが、裕美子さんだけが犠牲となった。

「明日、家に帰ったら会えるから、それまで我慢してね」。前日の16日、当時7歳の美幸さんは裕美子さんと電話で話した。しかし、その約束が果たされることはなかった。

震災後、美幸さんは友人らに裕美子さんの話をすることを避けた。口に出すとつらくなるからだ。中学時代は、毎年1月17日は学校を休んだ。授業で震災体験を発表しなければならず、クラスメートから裕美子さんのことを尋ねられたくなかった。

福祉の道を目指して、兵庫県立舞子高校環境防災科(同市垂水区)に入学。当初は、裕美子さんのことが頭をよぎり、防災の勉強がつらかった。

西市民病院で、救助活動をしていた消防士が講師に招かれたときは、裕美子さんを亡くした悲しさと悔しさを思い出し、ずっとうつむいていた。

それでも、授業の一環として、自らの被災体験を人前で繰り返し話すたび、「『母親がいない』という現実を受け止めることができるようになった」という。

25年4月、友人の紹介で出会った夫、文章さん(33)と結婚。26年5月に長男の結(つなぐ)くんを出産した。

結くんが生まれてから美幸さんは、裕美子さんを思うことが増えたという。結くんが風邪をひいたときなど、「お母さんがいれば相談できるのに…」と思ったという。それでも、「震災で多くのものを失ったからこそ、今の平凡な日常がより幸せに感じられる」と家族がいる日常に感謝している。

裕美子さんの記憶はあまりない。毎日のように保育園の送り迎えをしてくれたことや、入院中に売店でお菓子を買ってもらったことなどだけ。

ただ、子供が生まれて裕美子さんの無念が改めて分かる。「子供を残して死ぬことが、どんなにつらいことか。この子を絶対に守る」

母親になって初めて「あの日」を迎えた。愛する家族とともに訪れた美幸さんは、竹灯籠の前で静かに目を閉じて裕美子さんに呼びかけた。

「育ててくれてありがとう。これからも見守っていてください」

産経WEST

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